それぞれの卒業式

マイスターです。

季節柄、最近は卒業式のニュースが多いです。
そこで今日は、個人的に関心を持った卒業式の話題を、ニュースクリップ形式でお届けします。

【博士号に挑戦したトップアスリート。】
■「室伏に博士学位記=中京大の卒業式に出席」(時事ドットコム)

陸上男子ハンマー投げのアテネ五輪金メダリスト、室伏広治(ミズノ)が19日、名古屋市内で行われた中京大の卒業式に出席し、博士(体育学)の学位記を授与された。大学院に在籍していた同選手が壇上に上がると会場内からは歓声が起こり、学位記を受け取ると両手を挙げて声援に応えた。今後も研究生として大学に残る。
式後に記者会見した室伏は「本当にうれしく思っている。これを励みに北京(五輪)に向けて一生懸命頑張りたい」と笑顔をのぞかせた。
五輪連覇に向け、4月上旬に渡米。帰国後の5月に国際グランプリ大阪大会に出場する見込みで、その後は米国での大会出場も検討している。既に五輪代表に決まっていることもあり「8月にピークが来るようにトレーニングしていく」と話した。
(上記記事より)

ハンマー投げの選手である室伏広治さんが博士課程を修了し、博士の学位を得たそうです。
博士論文のタイトルは、「ハンマー頭部の加速についてのバイオメカニクス的考察」だとのこと。自身が取り組んでいるスポーツと、学術の世界とをつなぐような研究でしょうか。

競技生活と研究を両立させるのは簡単ではないと思います。
スポーツ選手というのは、競技を通じて多くの人に夢を与えるとともに、「自分もああいった活躍をしたい」というあこがれの対象になるような方々です。
そんな一流の選手が、こういった分野でも様々な挑戦をしているというのは、たくさんの人にとって励みになることなのではないでしょうか。

【現場を支えたベテラン、念願の博士号。】
■「66歳で大阪大学の博士号 造船学の論文で」(Asahi.com)

大阪大学に提出した造船学の論文で、奈良県斑鳩町の宮本雅史さん(66)が25日、工学博士号を授与された。阪大工学研究科で今年、博士号を取った中で最高齢。「94歳になる母親に博士号が取れた喜びを最初に伝えたい」と話す。
宮本さんは1967年に造船学で大阪大大学院を修了し、大手造船会社に就職。設計一筋で04年まで勤め上げた。いつか博士号を取りたいという念願から約4年がかりで論文「輸送機関としての船舶の性能評価」をまとめ上げた。
論文を審査した内藤林(しげる)教授(船舶工学)は「船舶は、汚れや経年劣化でも性能が落ちる。それらを考慮した上で最適な設計を考える内容で、長年の経験が生かされている」と評価した。
(上記記事より)

造船会社の設計者として勤め上げた後、博士論文に挑戦されたとのこと。
指導教授のコメントによると、まさにこういったベテランならではの着想が活かされた論文だったようです。経験を学術の知に昇華させる取り組みですね。
記事によると、博士論文の元となった論文には、日本造船工業会賞が贈られることも決まっているそう。

「94歳になる母親に博士号が取れた喜びを最初に伝えたい」という言葉が印象的です。

【若い学生達と一緒に研究した、企業の元会長。】
■「69歳井上さん(名古屋)に博士号、同朋大」(読売オンライン)

同朋大学大学院(名古屋市中村区)で22日、“企業戦士”として一線を退いた後、そのむなしさから仏法を一から学んだ、名古屋市中村区、井上重信さん(69)に文学博士の学位が授与される。自らの半生を振り返り、「会社人間そのものだった」と苦笑いする井上さん。仏法に新たな道を見いだした今、「若い学生たちのサポート役になりたい」と、さらに意欲を見せている。
井上さんは名古屋大卒業後、1961年に大手機械メーカー「久保田鉄工」(現クボタ)に入社。中部支社長などを経て、2000年に関連会社の会長に就任した。しかし第一線から離れて、「自分が一瞬にして無になったような気がした」という。
その後、新たな目標を探す中で、信心深かった祖父母の記憶や妻の助言から、独学で仏法を学び始めた。会長職を離れた03年に大学院へ入学。浄土真宗の開祖・親鸞の教えを学び、本編300枚、資料編150枚に及ぶ学位論文を完成させ、口頭試問も突破した。入学当初はワープロを使えず、論文は手書きだったが、今ではパソコンも使いこなせるようになった。
指導にあたった田代俊孝(しゅんこう)教授(55)は、「企業人としての経歴を鼻にかけることなく、研修の時は学生と雑魚寝もする謙虚な人。そのうえ、非常に意欲的で、20歳代の院生たちにも刺激を与えてくれた」と評価している。
(上記記事より)

こちらも、多くの方に読んでもらいたくなる内容。
指導教授のコメントから、この方の人柄が想像されます。
学びに対する姿勢という点で、模範にさせていただきたいところです。

【30年の時をこえて。】
■「拉致から30年、蓮池薫さんが中央大法学部を卒業」(読売オンライン)

北朝鮮による拉致被害者の蓮池薫さん(50)が25日、中央大法学部を卒業した。
拉致事件が起きたのは、30年前の大学3年時。永井和之学長が式辞で、蓮池さんの卒業に触れると、会場から祝福の拍手がわき上がった。
蓮池さんはこの日、紺色のスーツに、教員から贈られた大学名入りのネクタイをしめ、東京・八王子市の多摩キャンパスで行われた式典に出席。両親の秀量(ひでかず)さん(80)とハツイさん(76)、兄の透さん(53)が見守る中、ふた回りも若い卒業生らと一緒に「メロディーと1番は覚えていた」という校歌を斉唱した。
(上記記事より)

大変な、という表現が実態に追いつかないほど大変なことに巻き込まれた蓮池さんですが、長い時間をこえて今春、大学を卒業されます。うれしさだけではなく、拉致という被害にあったことの悔しさなど、様々な想いを持って式に臨まれたのではないかと思います。
おそらくご本人にとっては、他の多くの学生達とは違った意味を持っていた卒業式だったのではないでしょうか。

【91歳、英語コースを卒業。】
■「小樽短大最後の卒業式。91歳の女性も修了証書(北海道)」(読売オンライン)

3月末で閉校する小樽短期大(林堯(たかし)学長)の卒業式と閉学式が14日、小樽市内のホテルで行われ、同短大は41年の歴史の幕を閉じた。
(略)32人の卒業生に交じって91歳の冨田恒(つね)さん(余市町朝日町)が社会人英語コースの修了証書を受け取った。
冨田さんは2004年、社会人入学制度を利用して同短大に入り、余市町の自宅から週に2回、バス通学した。英語を始めた理由の一つは、夫の裕夫さんが戦死したフィリピンのマニラに行き、夫の魂を慰めることだという。
(上記記事より)

80代後半から大学で英語を学ぼうとする、その姿勢に脱帽。
学ぼうという気持ちがある限り、学びに終わりはないのだということを、改めて感じさせられます。

【母娘で通った大学。】
■「北九大卒業式55歳・藤本さん充実の笑顔」(読売オンライン)

北九州市立大学の学位授与式(卒業式)が22日、小倉南区北方4の北方キャンパスで行われ、1543人の学部生、大学院生が学びやを巣立った。社会人入学の学校給食調理員藤本みどりさん(55)(八幡東区清田1)は、体調不良を乗り越えて博士号を取得。「家庭、仕事、学業に同時に取り組むのは大変だったけど、やり遂げることができてうれしい」と、教員や家族に支えられた9年間の大学、大学院生活を振り返った。
藤本さんは長女の裕子さん(27)と母親(83)の3人暮らし。好きだった英語を学び直したいと考え、1999年に外国語学部に入学した。日中はフルタイムで働いて夕方に帰宅。慌ただしく夕食を作っては、夜間に同大に通う日々を続けた。
「入学後は友人が増えるし、新しいことを学ぶこともできるし、楽しくて仕方なかった」と学生生活を満喫していた。
しかし、大学院博士課程に進んだ2005年秋に腰を痛めて約1か月半の入院を余儀なくされた。「もう体がきつい。大学は辞めた方がいいかも」と弱気になったが、相談した教員から「せっかくここまできたんだから、続けた方がいい」と激励され、学び続けることを決意。病院のベッドに横たわったまま、提出するリポートをノートに書きつづった。同大卒の裕子さんがパソコンで清書してくれた。
博士論文は、日本人と欧米人の精神風土の違いを「恥」や「罪」といった概念を手がかりに分析したもので、この日、矢田俊文学長から「学術博士」の学位記を受け取った。
藤本さんは「親子で同じ学びやに通ったのも良い思い出。何歳になっても勉強はできる。それを娘に示すことができました」と喜びをかみしめていた。
(上記記事より)

40代半ばから9年間、外国語学部で英語を学び直し、今春、博士号を取得された方を紹介する記事です。
家庭と仕事、学業という3つに挑戦した9年間。病院のベッドの上で論文を書いたり、娘さんと同じキャンパスに通ったりと、様々な苦難や思い出があったようです。
がんばっている母の姿から、娘さんも多くのことを学ばれたのではないかな、と想像します。

【脱線事故で救出された学生達、卒業へ。】
■「事故越え、笑顔の巣立ち 尼崎JR脱線で負傷の同大・林さん」(京都新聞)

京都市上京区の同志社大で21日、卒業式があり、2005年4月の尼崎JR脱線事故で最後に救出され、両脚を失った経済学部4年の林浩輝さん(22)が出席した。「友人や家族に支えられてこの日を迎えられた」と感慨深げに語り、母校を巣立った。
卒業式で林さんは友人たちと一緒に最前列に着席した。賛美歌が斉唱され厳かな雰囲気の中、八田英二校長が林さんの前まで歩み出て直接、林さんに卒業証書を手渡した。
脱線事故で同大では3人の学生が亡くなり、30人を越える学生が負傷した。八田学長は式辞で「事故に遭った卒業生の皆さんの固い意志とたゆまぬ努力を知っている。希望を失わず人生を力強く歩んでほしい」と述べた。
同級生や教職員から大きな拍手を受け、車いすで会場を後にした林さんは「いろんな思い出のある4年間だった。これからも多くの人と知り合い、自分を通じて事故のことを知ってもらえればうれしい」と笑顔で話した。
(上記記事より)

■「JR脱線で負傷の大学生ら新しい道へ、同志社大卒業式 」(Asahi.com)

107人が死亡し、562人が負傷したJR宝塚線(福知山線)脱線事故から間もなく3年。あの朝、終点・同志社前駅(京都府京田辺市)に向かう列車には同志社大学の学生35人が乗車し、3人が亡くなり、26人がけがをした。今春、卒業を迎えたのは7人。21日、事故で車いす生活となった2人が人生を一変させた体験を胸に、それぞれの道を歩み始めた。
商学部の岡崎愛子さん(22)=大阪府池田市=は友人に車いすを押してもらい、袴(はかま)姿で卒業式に出席した。首の神経が傷つき、体にまひが残る。日常生活に介助が必要だが、4月からソニーの正社員として働き、東京でひとり暮らしを始める。
(略)リハビリで体の動く範囲が少しずつ広がるうちに、「事故のために何かをあきらめるなんて絶対したくない」との思いも芽生えた。病室にパソコンと教科書を持ち込んでリポートを作り、3年に進級。06年4月に復学し、病院から大学へ通った。退院は5月7日。入院は負傷者で最長の377日に及んだ。
就職活動の時期が近づき、希望先を電機メーカーに決めた。約30キロあった握力が物をつまめる程度まで弱まり、カメラのシャッターを押しにくく感じた経験などから、面接では、誰でも使えるユニバーサルデザインの製品を作りたいと訴えた。
(略)「この3年間、よく頑張ったと思う。事故でできなくなったことの方が多いけれど、その分、できることを見つけてやっていきたい」
岡崎さんと同じ先頭車両に乗り、両足を失った経済学部の林浩輝さん(22)=京都市上京区=は卒業式で八田英二学長から直接、卒業証書を手渡された。
(略)06年4月に3年生への進級と同時に復学。昨年10月以降、事故の記憶を風化させまいと各地で講演した。「多くの犠牲の中で生かされた。事故を語り続けることが使命」との思いからだった。
第1希望の広告会社に就職を決め、4月から東京で暮らす。式後、報道陣の取材に応じ、「友だちと一緒に4年間で卒業できてうれしい。新しい道を自分自身で切り開きたい」と話した。
(上記記事より)

同志社大学・八田学長の「事故に遭った卒業生の皆さんの固い意志とたゆまぬ努力を知っている。希望を失わず人生を力強く歩んでほしい」という言葉が、すべてを語っています。
事故に遭う前と比べて、できなくなったことは多いでしょうが、一方で、みなさんにしかできないことも、これからたくさんあるのではないかと思います。

以上、最近のニュースの中から、卒業に関する話題をご紹介しました。

元々、ニュースとして記事になっているものですから、今回はどうしても、ご年配の方や、特殊な経験をされた方々が中心になってしまいました。

しかし卒業というのは、すべての方々にとって特別なこと。努力を重ね、課題を乗り越えてきたという点は、すべての卒業生に共通です。
新聞などには載らなかったかもしれませんんが、本当は、卒業生の数だけドラマがあるはずです。
学ばれたことを胸に、これから、がんばってください。
今春に卒業された皆様、おめでとうございます。

マイスターでした。

※この記事は、現役高校生のための予備校「早稲田塾」在籍当時、早稲田塾webサイト上に掲載したものです。

1 個のコメント

  • いつも心待ちに拝見させていただいております。
    わが大学の卒業式も取り上げていただいていますが、私としてはJR福知山線事故で負傷された同志社大学の方の報道など見るとあの事件が思い出せれて胸が痛くなります。
    また、生涯学習が叫ばれる中で、高齢の方・スポーツ選手などさまざまな人が大学に関わってきているのだなぁと実感しております。